北叟笑(ほくそえむ)
勤め帰りにまたK先生のお宅にお邪魔した。
先生は民族学者で、四、五年前に大学を定年で退かれたが、七〇才に近い現在も研究者としての活動は続けておられ、最近、アフリカで行われた学会から戻られたということである。大学で先生のゼミ生だった私はその後商社マンになって、中国や東南アジアに派遣された。仕事は農産物の買い付けである。香港、上海、バンコックとそれぞれ二年間ほど駐在員として過ごしたが、三年前に本社に呼び戻され、現在は農産物課の課長補佐という肩書で「企画室」を切り盛りしている。我々の世代は卒業してかれこれ十年、三〇才の節目を少し回ったところである。私の仕事は商売だが、民族・言語・文化の多様な世界と接触し、状況判断をする必要があるので、先生の専門とする民族学に一脈通じるところがある。しかし私が先生のお宅にうかがうのは、仕事とはさしあたり無関係である。「息抜き」と言えば失礼かもしれないが、遠ざかりつつある青春時代へのノスタルジアとあくどい商売を強いられる現在の仕事に対する嫌悪感が、別世界に生きる先生の話に一種の〈解毒剤〉を求めてうかがうのである。先生は座談の名手である。物静かな語り口だが、細部の描写と卓抜な評言で聞く者を魅了する。しかもご自身の話が巧みなばかりでなく、相手の話にもよく耳を傾けられる。聞いたあとで口にされる寸評もけして説教じみたところがなく、そこはかとないユーモアがあって洒落ている。帰り道に先生の言われたことを反芻してみると、先生がけして出過ぎないように、相手の気持ちを傷つけたり、押しつけがましくなったりしないように、周到な配慮をされていることに気づくことがある。
その晩、一人で、アフリカ帰りの先生のお宅にうかがったのは、夜の七時を少しまわったころだった。先生のお宅は中央線の駅から歩いて一〇分ほどの閑静な住宅街の中にあるお屋敷である。二〇〇坪はある敷地に、鬱蒼と樹木が生い茂っていて、外から家は見えない。門はいつも開け放ってあるので――というか、あまり注意して見たことはないが、門柱しかないのかもしれない――門柱の間を通って、小径を玄関先までたどる。門から玄関が見えないのは、小径が左へ旋回しているからである。両側から繁茂した樹木の枝葉が覆い被さるようにして天蓋を作っている。六月の半ばなので、梅雨の湿気がたちこめて、煙っているような風情だった。家は大きな古い木造の二階建てである。玄関のベルを鳴らすと、意外にも、先生御自身が迎えに出られた。「今日は家内が留守なので」、とおっしゃって、いつもの応接間に案内された。先生はすぐに奥にひっこまれ、ほどなく前菜を盛ったお盆を運んでこられた。お盆にはクラゲと春雨の和え物、皮蛋(ピータン)、蒸した鳥肉の細切りに胡麻だれをかけたものなど中華風の前菜が調えられていた。「家内が出かける前に用意していったものです。あとで鰻重がとどきます。今日のご飯はこれでおしまいです。まあ旅の土産話を肴にお酒でも飲みましょう」」と苦笑された。そして「ちょっと梅雨寒むなので、向こうで老酒(ラオチウ)をお燗しています」と言われた。やや熱燗の老酒(ラオチウ)を飲みながら、問われるままに、同期のゼミテンの近況や最近の仕事のことなどを報告したあと、「ところで先生、アフリカはいかがでしたか? セネガルで学会があったというお話でしたね」と水を向けると、先生はこんな話をされた。話術の妙というのは書き言葉に写し難いものである。したがって、以下に記すのはあくまで先生の話の筋であり、要点に過ぎない。
*
学会が行われたのはセネガルの首都ダカールから南に七〇キロメートルほど下ったところにある海沿いのリゾートホテルだったそうだ。学会最終日(金曜日)の早朝、先生は朝食前の散歩に出られた。研究発表はホテルの広い敷地内に散在する大小いつかのバンガロー風の会議室で行われたので、記念に、よく出入りした会議室の入り口でも写真に撮っておこうとデジカメを携えて出た。部屋履きのゴム草履のまま出たのはすぐ戻るつもりだったからだ。とくに敷地の北外れにある海に面した二つのバンガローには頻繁に通ったので、少し距離はあるが、散歩にはちょうどよい、そこまで行ってみることにした。会議中は宿泊施設として使われているバンガロー群の間の小路を縫うように歩いて行った。芝生の広場に出たら、そこにある第二レストランのテラスを横切って、さらにプール脇に沿って海辺まで行くのである。しかしその朝は、いつも朝食を取るメインレストランの向かいに見える海へまっすぐ出て、そこから海沿いの遊歩道(プロムナード)を歩いて行くことにした。途中で遊歩道が海岸から少し離れバンガロー群の方へ折れ曲がったが、ほどなく芝生の広場の一角に出て、斜め前方にめざす会議室のバンガローの屋根が見えた。会議室はまさに敷地の北外れに位置していて、その向こうは一段下がって、満潮時には恐らく海水が入ると思われる、磯浜になっている。ホテルの従業員のお仕着せを来た数人の男がバンガローの入り口付近にたむろしていた。海辺の景色とバンガローを数枚写真に撮って、もときた道を引き返し始めた。そろそろ朝食に人が集まる刻限である。
そのとき誰かが呼んだような気がした。振り返ると磯浜の方に黒人の首が覗いていた。周囲を見回しても、他に人影がない。もと来た道を引き返すことにした。右手に海、左手奥にメインレストランが見えるところまで来たとき、後ろから「魚を見ないかい」と言いながらさっき遠目にみた人物とおぼしき黒人が追いついてきた。見上げるような大男だが、威圧的なところはない。魚か、ちょっと見てみるか、会期中はホテルに缶詰めになっていたからなあ。朝食バイキングだし、誰と時間を約束しているわけではないから、あわてる必要はない。そう思って、男の後についていった。男は海沿いにどんどん歩いて行く。さきほど写真に撮った会議室とは正反対の方向である。しかし海に沿っているので、そちらのほうに漁村があるんだろうと思っていた。
やがて泊まっているホテルに隣接した別のホテルの敷地に入った。建物が壊れていて、人気がなく、重機が置かれていた。「去年の大風と大波でやられたんだ」と大男が言った。いつのまにかもう一人中背の黒人が後ろから合流してきた。遊歩道が途絶えて、がれ場のような歩きにくいところにさしかかると、その男が手を貸してくれた。やがて海を背にする方角へ歩き出した。ひっそりしたヴァカンス村風の疎林の間を抜けて広い赤土の道に出る。何だかおかしいような気がしたが、大男が「村へ案内するよ」と言い、記念に写真でも撮ろうと言うので、後から合流した中背の男にデジカメを渡して二人の写真を撮ってもらった。見たいというので、再生画面を見せると、大男はクックッと笑って、「あんたはパンギムンに似てるね、こう額の禿げあがったところが」と言った。(パンギムン国連事務総長には、数年前、パリのユネスコで開かれた大きな国際会議のパーティーの席で、知り合いのフランス人に紹介されて、握手をしたことがある。彼は私よりかなり上背があるし、典型的なコリアン顔だから、「似てる」と言われてもなあ。もっとも東北アジア人の顏を民族別に識別することは我々にとっても容易なことではないから、アフリカ人の判断としては、文句も言えないけどね。かく言う私も以前ソウルのある大学に招かれて講演をしたとき、学部長の女の先生から「先生は私のおじさんと瓜二つです」と言われたことがある……。)
道の両側は個人所有の別荘か貸別荘のようだ。「ここは欧米人がヴァカンスに来るところだが、アジア人だってかまわない、借りたければ話をつけるよ」と大男が言った。赤土の道は遠くまで続いている。薄いゴム草履で出て来たので、鼻緒のところの皮膚がすれて痛い。ジーパンの裾も赤土にまみれて汚れている。しかし次第に胆が座ってきた。お金もカードも持っていない。金目のものといえばデジカメくらいだが、ありふれた代物だから、強奪するほどの価値はない。素寒貧の老人を襲っても得るところはなかろう。それにこの結末がどういうところに落ち着くのか見てみたいという好奇心が湧いてきた。赤土の道の両側の貸別荘や民宿風の建物が尽きたところで、左に曲がった。両側に民家が現れ始めた。山羊や羊が道端を歩いている。犬の吠え声も聞こえる。荷車を引くロバや馬も見える。頭に籠を載せて歩く大きな乳房の女の姿もあり、子供も遊んでいる。「もう少し行くと村の中だ、これから、職人の工房へ案内するよ」と大男が言った。村へ入ったと思われたのは、大きなバオバブの樹のある広場に出たからだ。広場の一角に井戸があり、大男が「見たいか」と言うので、近寄った。紐をつけたポリバケツで水を汲み上げていた若い女が恥じらうように身をよけた。列を作って水汲みの番を待っていた他の女たちは井戸の中にカメラを向けて写真を撮る私を物珍し気に見ていた。生活の場に闖入してきた異邦人を黙認している恰好だ。
広場の角から細い路地に入った。人出は多くないが、朝食の用意をしているらしい女たちの姿があちこちに見え隠れする。突然「魚を見るかい」と大男が言った。そうか魚を見に来たんだった。赤土の大通りに出たころから、〈魚〉はおびき出す口実に過ぎないと思っていたので、路地を抜けた先に海が見えたときにはびっくりした。浜には丸木舟が数隻引き上げられている。その傍らに魚を干す棚が設けられていて、簀子(すのこ)の上に数種類の魚が天日干しになっていた。早朝の漁から戻ってきた漁師たちが新鮮な魚を水揚げして、売り捌いている光景を想像していたので、これでは〈魚〉はやはり口実だったと言わざるを得ない。しかしこんな長い道のりを引き回した挙句に、敢えて話の辻褄合わせをしたのは、次の一手――本当の狙い――を指すために、〈獲物〉に過度の猜疑心や恐怖心を抱かせないようにするためだったろう。事実、「職人の工房」はそこからほど遠からぬところにあった。
それは掘建て小屋というにふさわしいみすぼらしい空間だった。間口は一間ほどで扉はない。広さは一坪あるかないか、三方が塞がれている。壁はセメント塗り、床もセメントで固めてあるようだが、木屑がたくさん散らばっている。いくつか同じような工房が並んでいるが、早朝なので、開いているのは一軒だけだった。真ん中に職人が一人座って細長い木片を鑿(のみ)で削っている。職人の背後の台の上に仕上がった木彫が並べられ、三方の壁にもお面などが掛けられている。いつの間にか案内してきた二人の黒人は姿を消していた。代わりに口のうまい若い男がしゃべりだした。「旦那さんの名前は何といいますか。頭文字でもいいですよ。Kですか、了解。それからお連れさんの名前は何といいますか」と切り出す。お連れさんというのは、この際、〈奥さん〉という意味だろうが、一人で来ているので、「連れはいない」と言うべきところだが、ふと、上海から来た若い女性研究者のことを思い出した。陳錦(チェンチン)(Chen Jin)という名前のドゴン族の研究をしているという三〇半ばの女性である。同じ分科会で顔が会ったときには隣り合わせに座ったり、ランチやディナーで何度か同じテーブルで食事をしたりした。今晩のお別れディナーの席で会ったときに、彼女にプレゼントしてやろう。「Cだ」と言うと、職人が手早く二切れの細い木片にお面のような目鼻を彫って、顎のところにそれぞれのイニシアルを入れて、渡してくれた。もちろんこれは囮(おとり)である。あるいは〈疑似餌〉と言うべきか。それから若い男が台の上に並べられた〈作品〉の説明を始めた。月曜日から日曜日までの家内安全・家庭円満を祈願する七枚組の木彫セットについて長広舌が振るわれる。同じセットには大、中、小がある。大は嵩張りすぎて旅行者には不向きである、買うなら中か小のセットだが、これは実はどの土産店にも置いてあるありふれたもので、まったく興味が湧かない。学会の中日(なかび)にダカールの沖合にあるかつての奴隷輸出港ゴレ島へ行くエクスカージョンがあった。それに参加した際に立ち寄った市場でうんざりするほど目にしたものである。説明を聞き流しながら、台上の品物に目をやってみたが、象や獅子をかたどった彫刻、黒人女の均斉のとれた肢体を固い木の塊に彫り出したもの、民族の祭器を模したものなど色々あるが、どれもありふれた土産品である。すべてが目の前にいる職人が彫ったものとも思えない。どこかから仕入れて来て並べてあるのだろう。弱ったな、買いたいものがない。壁に目を移すと、右の壁にかなり古いお面や祭具が掛けられているのがわかった。これは本物らしい。〈本物〉というのは、かつて村の生活の中で〈使われていた〉という意味で、純然たる商品として作られたものではないというほどの意味である。しかし壁に掛けられているものはどれも持ち帰るには大きすぎる。ふと職人の足もとを見ると、そこに赤い頭巾をかぶった一体の人形があった。密生した白い顎鬚を生やした老人の座像である。衣装は白地だが、ところどころに赤と黒の四角い布地がパッチワークのように縫い込まれている。その上にコーラ(貝)が貼り付けられているのも一興だ。両手は両膝の間に立てられたお祓い箒のようなものの上に置かれている。高さ二〇センチ、巾、奥行きともに一〇センチ未満といった大きさである。
「これは?」と言うと、若い男の口調が変わった。「これは旦那、条件がありますよ。博物館などへ転売しないと約束できますか? そう約束していただければ、そうだね、三〇〇€から六〇〇€といったところでどうです?」妙な言い方だが、正札というものがなく、つねに売り手が一〇〇と言えば、買い手は五〇と言い、丁々発止とやりあって、七五で折り合うという商習慣のアフリカでは取引はいつもこんなふうだ。ただ上限と下限を最初から提示したのは妙である。まずは上限をふっかけて、相手の出方を待つのが常道だろう。これでは三〇〇€ではどうだと言っているようなものだ。こちらがすぐに応じないのを見て「三〇〇€を下らない値段を言ってみて下さいよ、旦那」と男が迫る。男の言うのを聞きながら「三万円くらいなら買ってもいいか」と考えていた。そもそも値段の競り合いというのを私は好まない。自分が気に入った品物を買うのだから、相手の言い値を聞いて、自分の懐具合に相談して、合わなければ買わなければいい。土産物として作られた〈商品〉ではなく、どこかの家の隅に魔除けか、願掛けの神様として飾られていたものにどんな値段があるというのか。興味がない者にとっては無価値だろう。欲しいと思えば、まずは相手の言い値を聞いてみるべきだろう。ただやみくもに安売りをせまるのは卑しい気がする。「一〇〇€以上は出せない」というところから始めて、一〇〇€と三〇〇€の間の二〇〇€で交渉成立ということもあり得ただろう。男のほうもそのぐらいのことは考えていたかもしれない。しかし私は「三〇〇€で買おう」と言った。「ただし今はお金を持ってない。近くにカードでお金が下せる銀行があるかな? いずれにせよカードを取りに部屋に戻る必要がある」。すかさず男は、ボールペンと一緒に、薄汚れた雑記帳の新しい頁を開いて差し出した。名前と住所のあとに、次のように書いてくれと言う。« Je soutiens bénévolement avec ce geste les artisans jeunes des villages. 300 euros THIOKOROBA » 三〇〇€は村の若い工芸職人たちの活動を支援するための寄付だという意味である。この寄付行為に対して、赤頭巾をかぶった座像(チョコロバ)が譲渡されるという筋書きである。書き終わると、頁の左下に若者が〈イブライム〉と署名し、右側に私が署名した。それから男は新聞紙とセロテープで座像を丁寧に包んだ。
男が包みを持って立ち上がった。男についていくと、案内してきた大男と中背の男がいつのまにか姿を現した。磯浜に出たところで、男は包を渡しながら「ここで待っているからね。誰にも言わないで。ホテルの人に相談なんかしないように」と言った。驚いたことに、そこは早朝に写真を撮りにきたバンガローのすぐ下の磯浜だった。誰かに呼ばれたような気がして振り返ったら、大男の首がのぞいていたところだ。ということは、大男は餌に食らいつきかけた〈獲物〉を取り逃がさないように、辛抱強く、大変な大回りをして、ホテルに隣接する漁村まで私を連れてきたことになる。「魚を見ないか」と最初に声をかけてきたときに、もし、いま来た道を戻っていくのだったら、面倒だと思って応じなかっただろう。進行方向を変えずに海沿いに進み、すぐそこだと思わせておいて、いつの間にか海を背にする方向に連れ出したのが妙である。昔見たアフリカ映画のシーンを思い出した。どうしてもヨーロッパへ渡りたくて砂漠の村を出奔した男の話である。砂漠を横断する超満員の乗り合いバスのドアにしがみついて、やっとの思いでスペインを対岸にのぞむモロッコの港町までやってきた。港で密航船の口利きに声をかけられ、なけなしの金を払って、小舟に乗せられた。見つかるといけないから、シートを被ってじっとしているように言われた男は、疲れていたのでそのまま眠ってしまった。明け方目を覚まし、期待に胸をふくらませて見回すと、小舟は同じ港の波に揺られていたというシーンである。
*
そこまで話を聞いて、私は思わず口を挟んだ。
「それで先生はお払いになったんですか?」
「払いました。〈チョコロバ〉が気に入ったのと、金額が払える範囲だったからね。」
「三〇〇€というと、三万五千円くらいですね。部屋にお戻りになって、カードを持って、彼らが待っている浜まで行ったわけですね。」
「そう。ただ最後に一つ失敗した。チョコロバの包を部屋に置いて、ゴム草履を革靴に履き替えて、クレジットカードを持って、浜に行った。三人の男たちが待っていた。それから彼らの案内で村を出てATMのある銀行へ向かった。彼らはどうやら人目につきにくい裏道伝いに歩いたようだ。それでも途中で白いブーブーを着た若い宗教指導者(イマム)と擦れ違った。顔見知りらしく「この人が若い職人たちに寄付をしてくれました」と挨拶していた。イマムは私に笑顔を向けて、「インシアラー(神の御心のままに)」と言った。例の若い男は上機嫌で、「時々電話で話せるといいね」と言う。「日本との電話は高いよ、メイルならお金がかからないが」と応じると、「いや電話がいい、声が聞けるから」と言う。考えてみると、彼の住む家にインターネットに常時接続されたコンピュータがあると想定することには無理がある。これは彼が満足していることを示すリップサービスであって、いかなる現実にも対応していないことを理解しないといけない。ATMのあるフランス系の銀行は裏道が広い道に出たところを少し行った角にあった。入り口はちょうど角にあるが、ATMは角を右に回り込んだ広い道に面したところにある。前方を見てわかったが、その広い道はホテルの正門に面した道で、正門まで二〇〇メートル足らずである。まず三〇〇€相当分のお金を引き出した。アフリカの仏語圏の国では通貨としてfcfa(フラン・セー・エフ・アー)が使われている。固定レートで1€が六五五fcfaくらいだから、三〇〇€というと一九万六千なにがしということになり、一〇〇〇フラン札が最高額面の紙幣なので、相当の札束になる。その札束を数えずにそのまま後ろに控えていた若い男に渡した。それで取引終了ということになったわけだが、若い男はホテルまで送って行くと言う。「いいよ、分かるから」と私は言った。「いいえ送りますよ」と若い男が言った。行きかけたときに男が「あの二人にチップを少しもらえませんかね」と言った。そうかチップかと軽く受けとめたものの、現金を持っていなかったので、再びATMの前に戻った。画面に金額の選択肢が表示される。「5000, 10000.... 50000... 」。私が迷っているのを見て、男が後ろから50000のところを指差した。紙幣の束が出てくると、そのまま、男に渡した。その瞬間、男の表情が奇妙にゆがんだようだった。腰を落とし、私の顏を下から覗きこむようにして、「旦那、いいんですか」と言って、後退り(あとじさり)するようにして、目の前からいなくなった。「ホテルまで送ります」と言ったことなどすっかり忘れてしまったようだ。私の気が変わらないうちにと思って、あわてて姿を消したようだ。50000 fcfaはユーロ換算で七六€、円換算で約一万円です。ずっとホテル住まいで現地のお金を使う習慣がなかったから、fcfaを素早くユーロや円に換算することができなかったのが、失敗のもとだったね。たしかにチップとしては(特にアフリカの物価や平均所得からすれば)法外な額だったことは後から計算してわかったが、忘れ難いのは、あの若い男の腰が抜けたような姿態と歪んだ笑い顔だね。」
この話を聞いて、さすがに私も驚いた。
「先生、そもそも、案内人にチップをやる必要なんてあったんでしょう。」
「そうだね。何がチップだ、案内してくれと頼んだわけではない、とつっぱねて、帰ることもできたね。」
「先生は外国語に堪能ですから、言葉の問題ではありませんね。」
「彼らが話した言葉はフランス語です。フランス語は私の研究のキー言語の一つですから、表面的な意味を理解するのに問題はありません。ただ、言葉の使用にはつねにコンテクストがあるので、外国語の場合、表層の意味にとらわれて、本当の意味を理解しないということが起こりますね。」
「どういうことですか?」
「たとえば、今回の私の体験でも、いくつかの場面に分けて考えることができるでしょう。大男と中背の男に連れられて大回りをして村まで行く道中、職人のいる掘建て小屋で若い男の長口舌を聞き流しながら〈チョコロバ〉を買った場面、そして銀行のATMでお金を引き出し〈チョコロバ〉の代金を支払い、法外なチップを渡した場面。〈チョコロバ〉を買うときまでは、私の意識の中に、すべては私に何か土産物を買わせるためのトリックであるというコンテクストが明確にありました。「だまされてやる」つもりで、一体、結末がどうなるのか見届けたいという気持ちがあったということです。〈チョコロバ〉を買う気持ちになったのは、若い男の言葉にのせられたからではなく、自分の胸算用でこのくらいなら買ってもいいと思ったからです。もちろん交渉の余地があることはわかっていたけれど、欧米の民族学が他民族の祭具や農具を略奪してきた長い歴史を知っている者として、個人的に何かを手に入れるときには、相手のオファーが自分の懐具合にマッチしている限り、価格を争わないことにしているのです。雑記帳に書かされた文言は、ある意味で、〈チョコロバ〉を三〇〇€という値段で売りつけたことを隠蔽するための細工でしょうが、それは私には関係ないことです。私は〈チョコロバ〉を持って帰ることができたことで満足です。私が言葉の本当の意味を理解しなかったのは、やはり、チップを要求されて渡す場面だね。たしかに君が言うように、この体験の全体像、すなわち、コンテクストからすると、ここでチップという言葉を使うのはおかしい。チップというのは、あくまでこちらが頼んでしてもらった行為に対して、ご苦労さんでしたという意味で渡すものだからね。しか「酒手、心づけ、チップ」を意味するpourboireというフランス語は、表面的には、何の問題もなく私の聴覚を通して理解された。ただ、その場で、コンテクストが想起されなかったということだね。もしこれが母語での会話だったら、「チップ」という言葉を聞いただけで、不快に思って相手にしなかったかもしれない。その違いが外国語と母語の違いでしょう。金額の多寡は私の単純な無知から生じたことです。」
「先生、実は私にもこんな経験があります。」
と言って、数年前にニューヨークの空港で体験したある出来事を話した。私の上海駐在時代のことだから、五、六年前のことである。経済発展がめざましい中国でコーヒーの需要が急増し、今後、コーヒーの値が世界的に高騰する可能性がある、一度、調査する必要があるだろう。ついては中国のフランチャイズ「上岛咖啡(UBC) 」チェーン店の営業実態やスターバックスの進出状況などについての詳細とジャマイカのブルーマウンテンのような高級ブランドの将来性について報告して欲しいという依頼が本社からあった。中国や東南アジアのコーヒー事情を調べたあとで、特殊な気象条件の下で限定少量生産されるブルーマウンテン農園(日本の「上島コーヒー(UCC)」が運営)の実状を見聞するために、ジャマイカへ出張した。ニューヨークに立ち寄ったのはその帰りである。ジャマイカと言えば、ラスタファリアンでレゲエの王様ボブ・マーリーの島だが、彼の活躍した首都キングスタウンは今や<音楽と殺人の都>と称されるほど危険な都市(まち)になっていて、外出は必ずホテルからタクシーを呼んでするように、一人で散策するようなことは厳につつしむように言われていたので、短い滞在ながら、ストレスが大きかった。それで、ニューヨークへ着いたときには束縛感から解放され、文字通り〈自由の女神〉の国に来たような気持ちになっていた。そこに落とし穴があったのだろう。当時二六、七才の私にとって初めてのアメリカだった。通関して、タクシーに乗ろうと、皆が行く方向について行ったつもりだったが、建物の角を曲がったときに、「こちらです」と言って、私の手からスーツケースを受け取って、先導する腰の低い男がいた。私はてっきりタクシーの運転手が客を車まで誘導するために出てきたのだと思っていた。それにしてはいやに遠いなと思ったところに黒塗りの大きな車が現れた。腰の低い男が後ろのトランクにスーツケースを収め、後部座席のドアを開けて乗るようにうながした。車の中には背広を来た二人の男が乗っていた。口を利くのは助手席に座っているほうの男で、運転する男は押し黙っている。ホテルの名前と住所を告げると走りだした。自分がいわゆる白タクに乗せられてしまったことはすぐわかったが、高い料金を払えばそれですむのか、それともスーツケースを奪われるような被害にあうのか不安だった。しかし多勢に無勢ということもある、ここは少々高い運賃を払っても、ことを荒立てずに、無事ホテルで下してもらえれば御の字ということにしようと覚悟を決めた。「あんたは日本人かね?」と助手席の男が聞いた。「中国人です」と嘘を吐いた。「仕事かね?」「いいえ観光。」わざと相手の思惑を裏切るような返事をしたのは、なぜか身元を隠しておくほうが安全なような気がしたからである。「ニューヨークは暑いですか?」とあたりさわりのないことを聞いたのは、話題をそらすためだ。「ああ、今週になって暑くなってきた」と男が答える。「夏はどこかにお出かけですか?」「俺たちか?」「米国では夏に長い休暇を取る習慣があると聞いていますが。」「そうだな、今のところ、その予定はない。」男が苦笑いをしている。「お国はどちらですか?」と聞いたのは、ニューヨークのような大都会に暮らしている人の多くは地方から来ているはずだという思いからである。テキサス州アトランタだよ、というような返事を期待していたところ、「故郷(ふるさと)はブルガリアだ」という想定外の返事が返ってきた。そう言われてみると、何だか彼の話す英語の発音にゴツゴツしたところがあるような気がした。そうこうするうちに、予約しておいた小さなホテルに着いた。いくらかと聞くと、二〇〇ドルだと言う。通常の運賃に比べてどのくらい高いのかわからない。ともかく払おうと思って、背広の内ポケットに入れてあったドル紙幣の入った封筒を取り出した。ホテルやレストランなどの代金はカード払いにすればいいので、上海の両替ショップで、使い易いように、1ドル、5ドル、10ドル、20ドルなど小口の紙幣を主にして五〇〇ドルほど買ってきた。ところがドル紙幣はどれも大きさが同じでデザインも同じなので、いざ小口の紙幣で二〇〇ドル払おうとすると、興奮していたこともあるだろう、なかなか計算ができない。最初20ドル紙幣を何枚か渡したあと、50ドル紙幣が一枚あったので渡し、さらに10ドル紙幣と20ドル紙幣を数枚ずつ渡したところで、一体いくら渡したのかわからなくなった。「あといくらですか?」と聞くと、男は「もう少しだ」と言った。男の返事も妙だが、私のほうもパニック状態で、何だかわからないままに20ドル紙幣をさらに数枚わたし、また出てきた50ドル紙幣を渡して男を見ると、男の顔が紅潮していた。笑いがこみ上げてくるのを、気取(けど)られないように、必死にこらえているような顔つきだった。「もういい」と男が言った。外に出ると、運転していた男がトランクを開けてスーツケースを下ろしてくれた。ホテルの部屋で調べたところ、私が渡した総額は350ドルだった。通常のJFK国際空港から市内までのタクシー運賃は60ドルほどだというから、3倍の料金を要求され、6倍の金額を払ったことになる。
「先生、私の経験でもあとあとまで記憶に残るのは、あの男の笑いを噛み殺したような、紅潮した横顔です。先生の場合には、法外なチップを受け取ったときの若い男の腰が抜けたような姿態と歪んだ笑い顔ですね。あれは〈ほくそえむ〉というのでしょうか。しめた、してやったりという表情ですね。」
「〈ほくそえむ〉というと、たしかに日本語では〈してやったり〉という意味だけど、中国の故事では「北叟(ほくそう)が笑む」ですね。「北叟」は「北に住む翁(おきな)」、北から攻めてくる異民族の侵入を防ぐ砦(要塞)に住む老人の意で、「塞翁(さいおう)(要塞に住む翁)」とも言われます。この老人は占卜(うらない)に通じた老人ともいわれますが、人が不幸だと思うことを「好運」だと言い、「好運」だと思うことを「不幸」だと言う人です。飼っていた馬が胡人の住むほうへ逃げて行ったとき、みんなが慰めの言葉を言うと、「いやこれはもしかしたら好運のしるしかもしれない」と言う。数か月後にその馬が胡人の良馬数匹を連れて戻ってきた。そこでみんなが祝いの言葉を言うと、「いやこれが不幸のもとになるかもしれない」と言う。良馬がたくさん来たので、息子が好んで馬を乗り回すようになった。その結果、落馬して、足の骨を折る。みんなが見舞いの言葉を言うと、「いやこれが好運だったということになるかしれない」と言う。一年後、胡人が要塞周辺に攻めてきて、健康な男子はすべて兵隊に駆り出され、多くの若者が死んだ。しかし息子は骨を折っていたので、徴兵を免れ、父子ともに生き永らえた。これがいわゆる「塞翁が馬」という格言(ことわざ)として今日にまで伝わっているものですね。何が幸福か不幸か定め難いのが世の常というほどの意味でしょう。一つひとつの出来事に単純に一喜一憂するのは早計である、よいことがあっても、思わぬことで災いに転じるし、悪いことがあっても、福に転じることがあるという人生訓ですね。しかし私のアフリカの出来事もあなたのニューヨークの経験も、もし<北叟笑む>という言葉を使った場合、〈北叟〉とは誰なのかという問題がありますね。日本語の意味では私に〈チョコロバ〉を買わせ、さらに法外なチップをもらったセネガル人たちだし、君から法外な運賃をせしめたニューヨークの白タクの<マフィア>たちでしょう。しかし中国の故事に依拠すれば、〈北叟〉はどうしても我々のほうでないとおかしいね。」
「被害にあったほうが〈ほくそえむ〉のでしょうか?」
「そうなるね。問題はこの一見単純な〈わざわい〉がどういうふうに<福>に転じるかだね。それは主観の問題です。北の老人が何を言われても微笑むのは老人が目先の出来事にとらわれまいとして、人々の考えることと正反対のことを考えるからでしょう。ということは我々も騙された、盗られたという固定観念から脱却して、騙されたがゆえに、盗られたがゆえに何かを得なかったか、何かかけがえのない体験をしたのではないか、体験の代価として金銭を支払ったのではないかと考えるべきなんだね。それでこそ〈ほくそえむ〉わけだ。」
先生の言うことはある意味でもっともである。〈チョコロバ〉の一件がなかったら、セネガル滞在は学会に出席して、色々な世代の発表を聞いて、帰ってきただけのことだろう。「学会なんていうものは概してつまらないものですよ」と先生はいかにもつまらなそうな顔をして言う。「業績作りにやってくる未熟な研究者の鯱張った発表かベテラン研究者の社交の場だからね。稀に傾聴に値する刺激的な発表がありますが、発表時間の制約があるので、きちんと展開されないまま終わってしまいます。その真価を評価するには数年後に刊行される大会の論文集を待つほかありません。」〈チョコロバ〉の一件は、早朝の散歩から始まって、様々な偶然の要素が重なって起こったことなので、あれを映画の一コマのように人為的に作り出そうとしたら、キャストやロケの場所の選択、衣装や小道具の考証など、ばかにならない経費と時間がかかりますよ。いや面白い経験でした。しかも、ほら御覧なさい暖炉の上に見えるでしょう、〈チョコロバ〉を貰って帰ってきたんですからね。そう言われて見た〈チョコロバ〉にはたしかに独特の存在感があった。卓上を照らす大きなフロアスタンドの光の輪の外にあって、そこはかとない闇の中に沈んでいるので、なおさら神秘的に見えたのかもしれない。熱燗の老酒の盃が重なって、二人ともいくらか酔いがまわってきていた。
Comments